資本主義社会 5
純粋に経済的な次元では、買収の増大がすでに発展を遂げた諸国の経済に対して、市場のお追従者が想定するような、一貫して好ましい効果を引き起こすことはほとんどありえないように思われます。
かれらと同じ根をもった失望が同じ次元で生ずるであろうことはほとんど間違いないでしょう。
自由主義者は、計画化の理論家がついこの間犯したのと同じ罪をさらに悪いことに、同じような判断力の欠如を今日犯しています。
つまりかれらは、われわれの合理的な感性を過大に評価しすぎている、というよりもむしろ、われわれの欲望と感情が抑えがたいほどに強力であることを過小評価しすぎているのです。
この場合で言えば、権力とその補完的な代替物たる貨幣に対する「意思決定」のとどまるところを知らない貧欲さがそれです。
したがって、わが国のような発展水準に達した諸国経済において、買収が投資率を高め、投資内容を改善してくれるかどうかは疑問です。
そのうえ、過度に集権化されたすべての経済社会主義(経済、自由主義経済、混合経済を問わず)の最近の進展を見るかぎり、この期待は根拠を見いだせないでしょう。
政治的権力の集中化は、いたるところでこのうえなく合理的な意思決定をもたらしました。
ただし、それは買収の金銭的な利益という唯一の意味においてです。
あたかも買収が虚偽の投資を生み出すインフレの能力を波及させたかのようにして、さまざまな浪費が累積したのです。
経済発展が進むにつれて、資本形成の諸条件が全面的に進展しました。
つまり、公共経済における投資は合理化されたが、他方で買収によって育まれる非公式の経済においては、投資内容が熟慮されたあらゆる規範(ただし高収入が得られる要職の比重を決定する規範は別ですが)を逃れていきました。
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