絶世の美女、乙樽
沖縄ツアーなどでも必ずといっていいほど予定地に組まれる人気の観光史跡、今帰仁城跡。
その城跡には、絶世の美女といわれた志慶真の歌碑があります。
乙樽の話は、王の名前が明らかでなく史書にも記載されていないので、いつの時代のことかはっきりしません。
今帰仁城の王が北山王といわれて、はじめて史書にあらわれるのは伯尼芝という王からで、たぶんそれより以前のことが言い伝えられたものと思われます。
伯尼芝は弘和3(1383)年、明に入貢して、明の太祖から琉球国北山王に封じられたのですが、その後、北山王は三代つづいただけで、応永23(1416)年に首里の中山王に滅ぼされたからです。
この北山の滅亡のもようは、琉球を統一した中山側の正史に、かなり説話風に記されています。
ときの北山王ははん安知といって、自らの武勇をたのんで女色にふけり、民をしいたげていました。
そのため配下の有力な按司がつぎつぎに離反して、中山側につきました。
そこで中山王尚巴志は、それらの勢力をも合して、北山攻略の大軍をすすめました。
しかし、北山城は天瞼の要害であるうえ、王は武勇にとみ、家来の本部大原というのは無類の巨漢剛勇で、兵たちもみな強かったため、城は容易に落ちなかったそうです。